『食は広州に在り』は中華料理にまつわることを
30回にわたって書いた最初の食べ物エッセイである。
 

無名作家だった邱は「オール読み物・新人杯」で
世話になった文
藝春秋社の薄井恭一氏のすすめで
大阪のお菓子屋「鶴屋八幡」が発行していた
「あまカラ」に作品を載せてもラッタ。
 

最初は、一、二回の掲載と思って書いたところ、
評判が高く、連載は2年半、30回に亘ルことになった。

 

中国には昔から、南方の温暖で豊かな地方に対するあこがれ”から
“ “生在蘇州(生は蘇州にあり) 穿在杭州(きものは杭州にあり) 
食在広州(食は広州にあり) 死在柳州(死は柳州にあり)という諺がある

 

つまり、風光が明媚な蘇州で生まれ育ち、杭州産の絹のきものを身につけ、
広州のおいしい料理を味わい、そして柳州銘木の棺桶に入ってという意味である。

 

邱永漢は、広州に近い香港で6年過ごし、
広州出身の夫人を持ったという利点を生かし、蘊蓄を傾けた、

 話が多彩に亘り、読者は気づかぬ間に引き込まれてしまう。
そういう深い魅力を秘めたエッセイ集である。


この作品は、執筆が終わったところで、凝った本を作る名人、
沢田伊四郎氏の申し出を受け、立派な装丁の本として出版された。

時を経て、中央公論社が、文庫版『食は広州に在り』を発行し、
その際、作家、丸山才一氏が戦後食べ物3大随筆の1つと評し、
たちまちベストセラー作品となった。
 

 

小生、先年、広州を訪れ、昼時、老舗を訪ねたが、
そのか看板には、日本語で「食は広州に有り」と書かれていて驚いた。
日本人観光客が盛に訪れていることを示すものだが、
邱の「食は広州に在り」が日本人観光客の動員に与って大きいと感じた。
 
 


北京のアメリカ系慈善病院に勤務する
医者の
黄博士の夫人、黄太々はアメリカ人。

北京に長く住み、北京を深く愛し、
自分は中国人だと思ってきたが、
戦後、
黄博士が突然の病気で亡くなる。

良人に死なれ、黄太々は北京に住む
一老アメリカ婦人に
すぎなくなってしまったと嘆く。

彼女には中国人の養女、エリスがいる。
成人し、英国大使館付きの英国人青年、ポールと恋仲になる。

そのポールが本国勤務になり、
ロンドンでの結婚を求める。

だが、戦後の新生、中国政府は
北京生まれの中国人の英国渡航を認めない。

エリスは、英国渡航の道を探るため
中国を出て、香港に移る。

黄太々は、エリス には支援が必要と感じ、
36年住み慣れた北京の邸宅を引き払い、
香港への移住を決める。


この小説は、邱の香港の家の二階を
借りて住んでいた
アメリカ生まれの老婦人と
その養女の
身の上話からヒントを得て書いた作品で
中国人と結婚して、
中国語を喋っていても、
良人が死ぬと、
厳然たる国境線が引かれてしまう
という体験を伝える小説である。

(参考)
邱永漢 著『邱永漢自選集2香港/刺竹/石/華僑/毛澤西/首/長すぎた戦争/見えない国境線』のあとがき


台南市に住む楊老人は、妻に逝かれ、
息子も娘も家を出て、一人暮らしである。

息子の
永祥は日本の大学を出て、
台湾に帰ってきたが、
一攫千金のために
家の金を持ち出すのみで、
家には一切、
金を送ってこない。


娘の月華は娘で自宅に住んでいたが、親の愚痴が耐えられず
家出し、同じ勤務先の外省人と同棲している。

そんな孤独な環境のもと、老人の関心事は
専ら、自分が死んだ後の棺桶探しであるが、
珍しく、来客があった。

娘が、老人の誕生日祝いのため、
誕生日祝いのプレゼントを届けたのである。
涙もろくなった老人は幸福感でいっぱいになる。

この作品名の「故園」は「故郷」のことであり、
ふるさとで、一人寂しく暮らす父親の心境を
思いやりながら書いた作品である。

1956年(昭和31年)直木賞現代社から出版された
『密入国者の手記』、
 
邱永漢自選集『密入国者の手記』(徳間書店刊)、

そして、邱永漢短編小説集『見えない国境線』(1994年)(新潮社刊)に
収録されている。

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