『Q対談変化に生きる』は邱さんがホスト役として
7人のゲストと対談し、日本経済新聞と日経流通新聞に
掲載されたものが一冊の本にまとめられ、
昭和54年の11月に発刊された本です。

「日本経済新聞に『日曜対談』という
一頁を使った欄が新設された。
そのホスト役を頼まれた私は、変化激しい今の時代に、
それぞれの分野で特徴のある生き方をしている人々に
登場してもらって、その発想の源泉みたいなものを
皆さんに知ってもらうのがいいのではないかと思った。
 

私は、新しい時代の変化に一番敏捷に対処しているのは、
経済界の第一線で活躍している経営者たちだと考えている。
したがって、人選にあたっては、
大企業や官界や政界よりも
中堅企業のオーナーやいわゆる創業者社長に重点を置いた。

しかし、日経にはカミシモを着たような堅苦しい気風もあって、
必ずしも意見が一致しないところがあり、
スッタモンダの末に、ごらんのような陣容になった。」
(『Q対談変化に生きる』まえがき)
 

ということで対談相手に選ばれたのは次の方々です。
井上靖さんの小説『闘牛』のモデルとなり、
アイディア・プロデューサーとして活躍した小谷正一さん。

テレビ作家、タレントとして活躍し、当時参議院議員で、
現在は立正大学教授の野末陳平さん。

城山三郎さんの小説『官僚たちの夏』の
モデルとなった通産官僚OBで、
当時、余暇開発センター理事長であった佐橋滋さん。

小僧寿し本部を設立しチェーン店舗網を敷いた山本益次さん。

当時日本マーケティングセンターの社長さんで、
現在船井総研の会長さんの船井幸雄さん。

家業の鈴屋を専門店チェーンに育てた鈴木義雄さん。

家業の衣料店からユニーを設立した西川俊男さん。
以上7名の方々です。
 

「7人の御方との対談は実に楽しいものであった。
それぞれの立場も違い、活躍されている分野もまるで違う。
しかし、共通していることは、激しい世の中の変化に対して、
感度のよいレシーバーを具備しており、
職業上の必要性もあるが、
真剣かつ敏捷に対応していることである。
“大変だ”という意識はあっても、
悲観的な見方をしている人は一人もいない。
短い会話の間にも、それぞれの人柄がにじみ出ていて、
再読してもナカナカ味があるなあ、と思った。」
(同上)

邱はそれまでも多くの人たちと対談を行っていますが、
邱がホスト役となって対談したものが単行本として
出版されたのはこの本が最初です。
 

ちなみに、時を経て、このうちのお一人、
船井幸雄さんと対談『なぜいま中国か』が
刊行されるようになります。



「悪い世の中に生きる知恵」は昭和53年10月から
昭和54年6月まで『週刊ポスト』誌に連載され、
昭和54年8月に発刊された作品です。

「『悪い世の中』とは食うや食わずの

飢餓線上をさまよう世の中のことではなくて、
高度成長期にも遭遇しなかったような新しいトラブルに
直面させられる世の中ということなのである。

そういう『悪い世の中』をどう生きるかは、
私たちに共通の問題だが、この問題の解答者として、
私が一番適当な人間ということではない。

ただ、私は、日本が高度成長をして世界の富裕国に
おどり出るだろうことを予言した数少ない人々の一人であること、
また私の経済学は天下国家を論ずる
大上段に構えた『治国学』でなく、
『欲と二人連れ』で世の中の変化にどう対処していくかという
『斉家学』であるために、
週刊誌の読者向きであると考えられたのであろう。」
(『悪い世の中に生きる知恵』まえがき)。

この時期に、日本人が直面したのは
「コスト高とインフレと、生産過剰と資源不足に 
どう対処していくかという こと」(同上)で、
「企業や一人一人の個人がどこに生きる道を探すかは、
私がこの本で述べてたことからそう遠くへは脱線していくことはないであろう」
と著者は述べています。

実はこの文章を書いている小生が最初に読んだのが
この本です。一人の個人としてこの本から多くの有益な
アドバイスを送っていただきました。

数えると、本を手にしてから40数年の時間が経ち、
こうして、邱の作品の要点を伝えるようになっています。



 


「しかし、海の仕事に馴染まない小白龍が
新天地を求めて山西へ去ったので、
華子は日支事変の勃発するさなかを
上海へ逃げて、フランス疎開の杜月笙の邸の
お向かいに住むようになった。

青幇の大ボス、上海のフィクサー杜月笙は
日本軍からもっとも渇望された人物だが、
華子に心ひかれながらも、
香港へ脱出しさらに大東亜戦争直前に重慶に逃れ、
地下工作員を動員して、上海の日本軍とテロ戦を展開した。
 

そのあいだ、華子は両者の間に立ちながらも、
中国人のために尽くしたが、戦争が終わると、
『日本人だから、日本にかえれ』と言われ、
死ぬほどびっくりした。

彼女が日本人でありながら、台湾人であったり、
あるいは中国人として振舞うと、
台湾人や中国人からとても歓迎された。
それは『強い国籍』の人間が『弱い国籍』を選んで、
『弱い国籍』の人から仲間扱いを受けたからである。
 

ところが、日本の敗戦によって彼我の形勢が一転すると、
もう誰も彼女が中国人のためにあれだけ尽くしたことは
思い出してくれない。
なぜなら、人々は彼女が『弱い国籍』の人間のくせに、
『強い国籍』を欲しがっていると思ったからである。

大正8年から昭和2年までにかかって、
華子は『女は結婚した男の国籍について
まわるものとばかり思っていたのに』
『女にも国籍があることを発見したのである』」
(「私のマドンナ」『食べて儲けて考えて』に収録)
 

「この小説の主人公のモデルは誰かとよくきかれる。
小説は根も歯もある嘘八百だそうだから
根も葉もないわけではない。

李香蘭にも似ているし、川島芳子にも似ているし、
また本当に家族の令嬢で台湾の金持ちに嫁入りした女性もある。

しかし、私が小説書きになってから25年、
心の中で温めていた理想の女は、
流通新聞の紙面に姿を洗わしたとたんに、
もはやどうしても私の言うことをきかなくなり、
勝手にアジアの嵐のなかを一人歩きする
ようになってしまったのである。」(同上)

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