『オトナの憂鬱』は
『耳をとらなかった話』というエッセイ集を発行したあと、
1年半の間に新聞、雑誌に書いた文章を集め、
光風社から刊行したエッセイ集です。。

この本にはタイトルになった題名のと同名のエッセイが
収録され、その文章についてあるところで邱が書来ました。
 

「『オトナの憂鬱』という文章を書いたことがある。
それは近来とみに天下の大道を横行している
『コドモの反抗』ばやりに対する
些かのレジスタンスもあってのことである。

私の論旨は、子供の頃、大人は非常に分別ありげに見える、
17、8歳の兄ちゃんだって小人の目にはけっこう分別臭く映る、
ところが自分が20歳になっても一向に分別ができないので、
これは年の若いせいで30歳になっても、
一向に分別ができないので今度は40歳に期待する。

ところが40歳になっても
一向に分別ができたらしい形跡が見えない。

ただ40歳が20歳や30歳と違うところは、
これまで何回も自分をダマしてきた関係上、
もうこれ以上ダマすわけにはいかないこと、
つまり無分別は実は年齢と関係ないことに
気づかざるを得ないことである。

『四十不惑というけれども、不惑とはこのことなんだ』と
嫌々ながら納得させられるのはいかにも憂鬱なことだ、
というのが私の文章のあら筋である。

ちょうどその文章を書いた直後に、
ある会合で井伏鱒二先生と偶然、
向かい合って坐るめぐり合わせになった。

話が歳月のことになり
『月日のたつのは早いものですな』ということから
『年齢と分別、無分別は関係がないことを知るのは憂鬱ですね』と
私がクチバシを入れると、
『いやあ、年とともにますます無分別になっていくよ』と
井伏先生はおっしゃる。

私はまだそんな年齢に達していないので、
実感としてそれを感じることはできないが、
あるいはそうかも知れないと思って思わず苦笑を禁じえなかった。」
(『キチガイ日本』)
 

このとき文章を書いたときの邱は34、5歳ですが、
『オトナの憂鬱』は年をとっても格別、分別がつくわけでもないことを
告白したエッセイ集だと言っていいでしょう。


それにしても『耳をとらなかった話』って
どういう意味なのだろうか。
のちに書かれた 「耳をとった話」
(『食べて儲けて考えて』昭和57年に収録)
というエッセイがこの疑問に答えてくれます。
 

「私が小説を書きはじめた頃、
ペンネームをどうするかという問題にぶつかった。

(中略)漢という字はもちろん、
中国史上最も重要な位置にある王朝の名前
だが、ほかにオトコという意味がある。
但し同じオトコでも好漢とか熱血漢とか
硬骨漢とかいった意味よりも悪漢とか痴漢とか変節漢とか
悪い連想を伴うことが多い。

漢という字から来るイメージはハンチングかぶって、
色眼鏡かけて、ふところにピストルかドスでも
かくしもった感じである。
凡そ国際都市香港に亡命をして、
東大出の肩書などサラリとふり捨て生きていくには
このくらいの面魂がなければとてもやっていけないと思ったので
『邱永漢というペンネームになおして下さい』と追っかけ
航空便を出したが、
時、既に遅く、表紙を刷ったあとなので、
表紙の表紙は丘青台、中身は邱永漢、
というのが私の処女作のぶざまな姿であった。
 

しかし、このペンネームにも問題があった。
当用漢字になれた若い人が邱という字を
どうしても読めないのである。
邸という字を書く人もあるし、ひどいのになると、
印という字を書く。
邱と丘はもともと同じ字で?(おおざと)は村という意味だから、
日本人の姓にのせば、さしずめ岡村とか村岡ということになる。

若い人が読めないのも困るが、
新聞社にも印刷会社にも活字がないのはもっと困る。
小説が雑誌に載っても、活字がないために丘という字に
どこかからおおざとをもってきて、あわててくっつけた跡が
歴然とした活字で
私の名前が印刷されているのである。

あまりにも度々、そういう目にあったので、
いっそ邱を丘に変えてしまおうかと思ったことがあった。

現に邱氏宗親会も、同じ姓として扱われており、
私の親戚のなかには、邱の字を名乗っている人もあれば、
丘を名乗っている人もある。
しかし、どうしても耳をとると別人のような気がして
ならなかったので、
そのことを私は「自分のような情報産業に従事する
人間が耳をとってしまったのでは困るからと書いた。」
(「耳をとった話」)。

邱のペンネームを「丘」でなく「邱」のままにし,

本のタイトルを「耳をとらなかった」と表現した意味がわかります。 


「耳をとらなかった話」は
昭和31年から昭和33年まで
2年の間のあいだに邱が書いた作品評論
が集めたエッセイ集です。
 

この本の中に「まわせまわせ糸車」と題するエッセイが
収録されています。
昭和32、3年頃の邱の消息をよく伝えているように
思えますので引用します。
 

「今年(昭和32年)の五月、かねてから『あまカラ』誌に
連載してきた食べ物随筆『食は広州に在り』を一冊にまとめて
出版するまでは至極のんびりした日常だった。
ところがこの本が出ると、ラジオの対談などに引っぱり出され、
食通だそうですが、ときかれるので、いいえ大食通です答えると、
たいてい、相手が笑い出してしまう。

それに力を得て、その後、中央公論の巻頭論文を続けて書いて、
このところ、小説を書かなくなりましたね、といわれると、
はい大説家になりましたから、と答えることにした。

冬も近づくとさらに病が高じて、
遂に男女関係の大家にまで化けてしまった。

いずれも大がつく点では『大日本』と同様、はなはだ大時代である。
小人ほど大言壮語し、ボロ会社ほど大きな看板をかける
傾向があるから、その典型的な例だといわれては返す言葉もない。
夏のことだが、一ヶ月に二十以上も仕事が持ち込まれて
悲鳴をあげたら、
ある人が、心配しないでも二ヶ月ぐらいですぎるよ、
といってくれた。
うれしいような、さびしいような気持できいていたが、
いつの間にか半年たってしまった。

これが従業員を抱えた会社ならたちまち近江絹糸の二の舞だが、
昔ながらの手内職だから『まわせまわせ糸車』で、
結構まだぐるぐるまわっている。

いまに種切れになって糸車がまわらなくなって、
糸車がまわらないだろうかと心配顔をしたら、
なあに、相手(社会現象)の方が変わってくれから大丈夫さ、と
これは大宅壮一先生のご名答。
それにしても、一年を十日で暮らすいい男、とまでは望まないが、
せめて、あとの半年はねて暮したいものですね。」
 

邱がかなり忙しくなった様子が読み取れますね。
近江絹糸とは昭和29年の6月から9月まで労働争議が続いた
会社のことです。



↑このページのトップヘ