評論集『サムライ日本』で邱は
「日本人の精神生活を支配している伝統的な物の考え方」
を描いたが、それに続き、社会現象から入り、
それらの社会現象を支える日本的ムードついて
書いたのが評論集『キチガイ日本』です。
本のタイトルはのちに全集に載せる時
「クレージー日本」と改題したが
「日本人はみな精神異常者だという意味ではなくて、
『キチガイといわれるほどでないと駄目だ』
という修辞学的な用法である」と
「あとがき」で書いている。
この連載で、著者は高度成長経済に突入した
日本で起こっている様々な「日本的ムード」をとりあげましたが、
特筆すべきは「借金のすすめ」を提言したことです。
「『どこからこんな資金がでてくるのでしょうね?』
と私がきくと、『自分の金で建てている人は一人もいませんよ』
と数少ない自己資本家の大阪商人は笑いながらいった。
銀行はビル建設のための長期金融はやっていないはずである。
けれども大会社は他の名目で金を借り入れ、
帳簿のやりくりをしてビルを建てる。
3年たち5年たち利息を払っているうちに
土地や建築費が値上がりすることは見えすいている。
この情勢のもとで金を借りない経営者は
バカだということになろう。
かくてビルは林をなし、ビルラッシュが続いている限り
日本の経済界に好景気が続く。
しかし、鉄筋コンクリートは火事でもなかなか焼けないから、
東京や大阪がビルで埋まって暁にはどうするつもりだろうかと
ちょっと心配になってくる。
『なあに、心配することはないさ。
そうなったら東京湾や大阪湾でも埋め立てるさ』
と人はいうかも知れない。
多分経営者や政治家はそれでいいだろう。
だがそれにしても可哀そうなのは
食うものも食わずに貯金をして100万円貯まったら
小さな家の一軒も建てようと夢見ている人々である。
彼等が100万円貯めた頃には、200万円出しても
彼等が夢見ていたような夢は建たなくなっているであろう。
サラリーマン諸君よ!
経営者を見ならってまず金を借りて家を建て、
それから賃上げ闘争をやって
少しずつ返済していったらいかがです? 」
この会話が交わされたのは昭和30年頃のことで、
サラリーマンが住宅ローン制度を利用出来る様になるのは
昭和40 年頃のことです。
つまり住宅ローンの制度が取り入れられる10年も前に
時代の流れを読み、次におこるであろう事を予測し、
具体的な提言したところに、著者の先見性が読み取れます。
そういう意味でこの提案は特筆に価することです。
このように社会現象をとらえた点で新鮮さがあり、
『サムライ日本』にくらべ、遥かに読みやすい。
ちなみに、この『キチガイ日本』は
S36年6月に南北社から刊行され、
邱永漢ベストシリーズでは平成7年に
『クレージー日本』と改題して再版されました。