さて『東洋の思想家たち』には「私の論語」「私の韓非子」
「私の荘子」の三つの作品が収録されている。

邱はこれらの作品を執筆にあたり孔子、荘子、韓非子の三人の
思想とその人物をわかりやすく、かつ現代人の考え方と
合致する線で再現することにつとめました。
 

邱は儒家の代表としての孔子を
「仁徳がある男でもなければ、清廉潔白な男でもなく、
卓見はあったが、相当の喧し屋で、
そのためにあまり恵まれなかった一人のインテリ。
政治家としては失敗者であり、万年野党的見解の持ち主」
ととらえました。

ただ、孔子は「幅の広い性格の持ち主」で、
「弟子たちのあるものは『芸術家』としての孔子に、
ある者は『実際家』として孔子に、
またある者は『野人』としての孔子に
偉大さを見出だし」、後年「弟子たちの尽力で
儒学が盛んになり、教祖としての孔子が偶像化された」と
書いています。
 

道家の代表としての荘子については、
「仮に孔子、荘子、韓非子と三人並べて知能テストをやれば、
荘子が意外にも最も優秀なる成績を上げるのではないかと」と
その「緻密な論理的頭脳」を高く評価しています。
そして荘子は徹頭徹尾、孔子を揶揄し、
仇敵のように扱っているけれども、
孔孟の儒家と老荘の道家の二つの思想は
お互いに相容れない関係でなく、
「同じ米からつくられたメシと酒の関係に似ている」と
表現しています。
つまり「儒家の思想は中国人にとって米のメシのようなものであり、
それをあざ笑うかのごとく現世に背を向けた老荘の思想は
メシに対する酒のようなもの」(『中国の旅、食もまた楽し』)と
とらえているのです。
 

そして法家の代表としての韓非子ですが
「理路整然、林語堂氏の言葉をかりるならば
『中国人の思考方法というよりはむしろ
ドイツ人の精神の典型というべき理論』を展開している」と
しています。

   


続けて「私の荘子」を書き下ろしで書き、
「私の論語」、「私の韓非子」、「私の荘子」の三篇がそろったところで
創元社に持ち込みました。

しかし、この出版社の社長の小林茂氏とは懇意にしていたが

同社の顧問をしていた評論家の小林秀雄氏が反対し
流れたと、のちになって知りました。

「小林秀雄さんは『孔子や荘子のような何千年もの淘汰に
耐えてきた古典を、邱さんのような青二才にそう簡単に
料理されてたまるか』といい」(『邱飯店のメニュー』)
「私のとりあげたテーマを見て、
中身も読まずにフンと鼻であしらった」。
(『中国の旅 食もまた楽し』) 
 

そして小林秀雄氏は
「のちに私が株や金儲けの話を書いて話題になると
『あれはニセモノだと思っていたが、やっぱりそうだろうと
先見の明を誇られた」(『邱飯店のメニュー』)たとのこと。

「小林秀雄さんのような生き方をしてきた人にとっては、
経済と文学が理解できるということは到底理解できなかった
ことであろう」(『邱飯店のメニュー』)と邱は感想を述べています。
 

小林秀雄氏といえば、文芸評論の世界で神様扱いされた人で、
こうした人の反対で創元社からの出版は流れましたが、
講談社が出版を承諾しました。

こうして邱の34歳の冒険作、『東洋の思想家』は
『食は広州に在り』に勝るとも劣らぬ立派な
装幀で世に出ることになりました。

この『東洋の思想家』は講談社から出版されたのち、
徳間書店の『邱永漢自選集全10巻』にも、
また日本経済新聞社の全25巻の中にも
そしてQブックス五十巻の中にもその1冊として選ばれています。
 

出版されてから20数年たったところ邱は
「孔子や荘子や韓非子に対する私の解釈は20何年たった今日、
読み返しても訂正を要するとは思えない。
こうなると学問のレベルというより人生に対する流儀の違いだから
どちらが正しいと言い争っても仕方がない」
(『邱飯店のメニュー』)と
と小林秀雄氏の対応についての感想を書き、また
「なるほど小林さんの見識を持ってすれば30過ぎの右も左も
わからない若造が何千年もの淘汰に耐えてきた古典を料理する
こと自体がおおそれたことに映った違いがない。
しかし、あれから四十年あまりたって、古稀の年齢をこえてから
私が読み返して見ても、
三十台に捉えたイメージとそんなに大きな違いがあるわけではない。
仮に年をとるとまた別の感想があるとしても、
若い時には若いなりの見方があっていいように思う」

(『中国の旅 食もまた楽し』)と書いています。



邱は直木賞をもらい、盛大な祝賀会も開いてもらったが
注文らしい注文が来ませんでした。

こういう状況を打開するための方法の1つとして
東洋の古典を取り上げることを考え、古典の勉強をしました。

「そうしたら論語に出てくる孔子はかつて学校時代に教えられた
孔子の偶像とはまったく違ったもので、
人間的な欠陥を露呈ししたきわめて生き生きとした
オジさんだったのでびっくりしてしまった」
(『食べて儲けて考えて』(「私の知っている孔子と韓非子」)昭和57年に収録。)
 

そこで孔子の思想と生き方を現代人の立場から描いてみようと考え、
「私の論語」という百枚ばかりの原稿を書きました。
 

河出書房に掛け合ったものの。掲載を断られ、

やむなく原稿料のもらえない「大衆文芸」に掲載してもらいました。

この「大衆文芸」に掲載された「私の論語」が
文藝春秋編集長の池島信平氏の目にとまり、
池島さんからの注文で「私の韓非子」を執筆し、
この作品が『文藝春秋』4月号に掲載されました。

ただ掲載された「私の韓非子」は枚数制限もあり、
当初書きたいと思っていたものと違ったものとなったため、
年末から新年にかけ100枚の原稿に書き直し、
「日本読書新聞」に連載した。
 


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