邱は昭和46年に『私の金儲け自伝』を書いたあと、

国民政府の3度にわたる要請を受け、台湾に帰ります。
それから5年たった昭和52年5月、
台湾を行き来するようになってからの考えや行動を記録した
「台湾へ帰るの記」を追記し、徳間書店から刊行したのが本書です。

この本の最後のところで邱が書いていることを引用します。
「私は台湾は大陸とは別の国になったほうがいいと
主張したために国民政府のお尋ね者になり、
この調子では一生、国へ帰れないかも知れないという覚悟もした。

それが星月移り、時世も変わったために、
逆に向こうから帰ってくれ、と迎えられることになった。
その上、全台湾の新聞、テレビが
私の帰国を宣伝してくれたおかげで、
私は誰知らぬ者のない存在となり、
道を歩いていても知らない人から挨拶される。
 

もし私が新聞に毎日、
写真の載るような政府の要職を占めていたら、
人に知られることは同じかも知れないが、
自由に物を言い、路傍の露店に腰をかけて、
陽春麺を食べる自由を持たないだろう。

私の中には、経済人としての計算高さと、
作家としての反骨精神、自由奔放さが同居していて、
いまだにどちらか一方を捨ててしまうことができないのである。
 

現に、この文章を書いている現在でも、私は成功者ではないし、
今後もそういう部類には入らないだろう。

私は幸いにして生きているうちに故国の土を踏むことができたし、
年齢的にまだ仕事のやれる時期に帰ったので、
台湾の経済建設、文化的な事業、さらに日本と台湾を結ぶ仕事と、
やるべき仕事をたくさん抱えている。
 

しかし私の陰には政治活動をしたために銃殺にあったり、
台湾の東部の緑島という離れ島で
いまだに刑務所生活を送っている人もある。
 

それに、台湾の将来をどうするのか、
という問題も未解決のままである。

だから私の人生はまだ勝負が終わったわけではない。
しかし、私は安定を求めるような人生には用はない。

自ら常に不安定の中において、
苦痛の中に一種の恍惚感を味わおうというのが

私の生き方だからである」(新版『私の金儲け自伝』) 。

邱永漢の真骨頂が簡潔に表現された言葉だと思います。 


本書は『株の盲点』と題し
日本証券新聞に連載し

昭和52年4月に日本経済新聞社から刊行された作品です。

前作『株の発想』を刊行してから五年の間に
著者は日本において、
「『円高後遺症』に悩むようになった」
という表現を使います。

賃金が高くなりすぎたことや、
消費者パワーとか組合の反対で経済効率を高める努力が
不可能になっていること
また週休2日制のひろがりで、
「金がなくてヒマ有り余る状態」になり、
レジャー時代の夜明けを迎えていると
指摘しています。

こうした角度から日本の経済の変化をつかまえ
“お金の通り道”が変ってきているとの見方を
明らかにしました。

「昭和48年あたりを境として、
日本経済におけるお金の流れが大きくかわってきた。
この変化は巨視的に見ると、驚くほどはっきりしているのだが、
波打ち際で見ていると、
大波小波のくりかえしの中における大波と
さほど変わりはないから、
『なあに、そのうち鎮まるから大したことはないさ』
と思っている人が多い。

実はそうではなくてボンヤリ釣竿を垂らしているうちに、
気がついて見たら、川そのものが涸れていた
ということもありうるのである。
これは事業をやる人にとっても、就職する人にとっても、
また株式投資をする人にとっても、
きわめて重要な経済現象である。
この本は、『株の盲点』と題して
たまたま日本証券新聞という投資家相手の舞台で
連載してきたので、株を買う人の立場に重点が置かれているが、
経済活動に従事するすべての人にとって
興味のあるテーマであろう。
 

高度成長経済時代に、
私たちが常識としてきた借金経営とか、
不動産投資というものは、
そのまま今後も通用するとは限らなくなっている。

また造船とか化繊とか工作機械とか、
日本の誇る産業が絶頂期を過ぎて
衰微のプロセスにはいりつつある。

テレビ、トランジスタ・ラジオ、カメラ、腕時計のように
日本が欧米から主導権を奪った産業だって、
はたしていつまでチャンピオンの座を守り続けられることか。

今まで海外から日本へ流れ込んでいた金の流れは、
メーカー業が日本から海外へ移動するにつれて、
日本列島を素通りする度合いがますます多くなっている。

こうした変化にうまく適応することができきるかどうかが、
日本がイギリスの二の舞をふむかどうかの
分かれ目になるのではあるまいか」
(『カネの流れが変わった』あとがき)。

のちの株式投資評論、『株が本命』で著者は
「波の高い低いでなく、潮の流れに乗れ」 
と読者に提言しますが、本書は昭和46年ごろの時点で
著者が展望した「潮の潮流」を著した作品です。 


『妻の財産づくり』は初版から7年たった昭和59年に
2回目の全集、Qブックスの一冊として再版されました。

この出版に際して邱が読み返したときの印象を、
『女の財布』(世界文化社。昭和60年)
のなかに書いています。

「『妻の財産づくり』は『家計簿的な発想でもなければ、
最近、職場に進出してきた
『女性の経済的な独立』を論じたものでなく、
ちょうどその中間に位置したいわば『灰色地帯』を
取り扱っていることに改めて気がついた。

『家計簿』は女性が主婦として家にいて、
ご主人が稼いできたお金を家庭生活のために
如何に上手に配分していくかという角度から案出されている。

『女性の経済的な独立』は
完全に独立した会計とまではいかなくとも、
少なくとも一家の大黒柱は一本でなく、
二本になった状態をさしている。

これに対して両者の中間地帯は、妻が働きに出ようが出まいが、
男が女と一緒になって一つ屋根の下で暮らすようになれば、
必ず発生する家庭内の金銭問題を扱ったもので、
一つは、女が男に比べて長生きする現状から生じた
新しい矛盾であり、もう一つは平均寿命が延びたとはいえ、
そろそろ戦中派から戦後派への世代交替期に
さしかかわってきたという現実とかかわりがある。
 

この時期はまた同時に、女性が家庭ばなれをして
職場進出に意欲を示しはじめた時期でもあるから、
以前に比して、財産とか利殖に対する主婦の関心が高まってきた。

しかし、一足飛びに女性が男性に
伍して働くというところまではいかず、
それ以前の段階で、とりあえず家産をどう動かすか、
また、ご主人が死んだあとの生活をどう安定させるかが問題で、
その具体的な提案として、私は主人のビジネスのほかに、
別に『家族会社』を設立することを提案したのである。

そうした『家族会社』を運営するための
女性の経済教育について書いたのが、
『妻の財産づくり』であり、
同じ問題を税法とのかかわりで扱ったのが
『資産家・事業家のための節税の実際』だったのである。
昭和50年という執筆の時日を考えれば、
『妻の財産』という発想になったのも
無理はなかったと思う」(『女の財布』)

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