邱は昭和47年、対立関係にあった
国民党政府からの要請で、祖国の地を踏み、
そこから、台湾経済の視察団を組織して
大勢の日本人を台湾に案内するようになりました。
その頃のことを「台湾は昔の台湾ならず」のなかで、
書いています。
 

「『台湾は “男の天国” と週刊誌に書かれていますが、
経済が発展すると、“男の天国”はなくなってしまいます。
敗戦後の日本には多くの外国人がやってきました。
遊びに行くのなら日本だというのが
その頃の外国人の合言葉だったからです。
“こんな女に誰がした”という歌がはやったのも
その頃のことです。

しかし、日本の経済が発展すると、
日本は遊びのメッカでなくなりました。
皆さんの力で台湾経済が発展したら、
台湾も“男の天国”でなくなってしまいます。
だから行きたかったら、今のうちです』

一回に50人前後、三十何回も視察団を組んだから
総ぜい1500人以上にもなったろうか。

その中で一回だけ台風が台北を直撃して、
帰国の日に台北で足止めを食ったことがあった。

旅行社の人がお客さんの家族たちが心配するといけないと思って、
留守宅に連絡をしようとした。
すると、団員のなかから二人ばかりとびだしてきて、
連絡はいらないと言った。
『どうしてですか?』と聞くと、
『北海道にゴルフに行っていることになっているんですから』
『ゴルフって、ゴルフの道具は
お持ちになっていらっしゃらないじゃないですか?』
『いや、伊丹の飛行場の一時預けに預けてあるんです』
これには爆笑が湧いた。」
 

「紆余曲折はあったが台湾経済は奇跡的な発展を遂げ、
昨年(58年)、本年(昭和59年)と二年続きで
年間50億ドル以上の出超が続き、
84年末で台湾の外貨準備鷹は確実に200億ドルを突破する。
日本の外貨準備高が250億ドルていどで、
台湾の人口は日本の約6分の1だから、
人口比で行けば、
日本が1200億ドルの外貨を持っているのと同じ状態になる、
外貨保有高から見る限り台湾は
世界一の金持ち国にのしあがったのである。
 

その一方で、北投温泉は売春が禁止されて、
“男の天国”でなくなってしまった。
失業した女たちは『外国観光旅行の自由化』を利用して、
今までの『客寄せ』商売から『出前』に方向換えをして
日本に出稼ぎにくるようになった。
その生態を書いた『小姐東遊記』という短い短篇が
私の『たいわん物語」という本に収まっている。
予想したとおりの動きになったが、どうして台湾の経済が
これだけ発展したかというと、
第1に台湾の人たちが勤勉で働き者であるからだろう。
第2に教育水準が高く、知能程度が優れているかれらであろう。
第3に社会的投資がアジアでは日本の次くらいに行き渡って、
工業の発展に向いているからであろう。」
(「古い知恵と新しい変化」『金銭通は人間通』に収録)
 

往時の台湾の姿が描かれていて興味深いものがあります。
ご承知の通り、台湾は、今は豊富な外貨保有高を
有するアジア有数の経済圏を形成するようになっています。


昭和60年に発刊された『金銭通は人間痛』に収録された
「台湾は昔の台湾ならず」のなかで、
邱は短編小説集『たいわん物語』で
日本人男性と台湾の女性とのそれぞれのカルチャーと
カルチャーのぶつかり合いを描いたと書いています。
 

「台湾は長い間、週刊誌で
“男の天国”として喧伝されてきたので、
日本人の中には今でも台湾を
風紀のよくないところだと思い込んでいる人がある。
田舎から集められてきた小姐たちが、工場で働くよりも
北投温泉で働いた時代があったことは事実である。

また東雲閣、五月花、黒美人といった
酒家に集められたホステスほど、
若くて美人の揃ったところは
他国にその例を見ないのも本当である。
但し、これらの地帯は万里の長城のそとみたいなところで、
長城のそとは無法地帯だが、一歩長城の中に入ると、
ガードは意外に堅く、
男女の貞操観念は日本人よりずっと保守的である
と考えて間違いない。
 

12年前(昭和48年)に私に連れられて
父親の故地に現われたうちの娘は、
ジーパンを穿いていただけで『何というハシタないカッコをして』
と親戚の者からたしなめられた。

10年もたつとさすがに若い男も女もジーパンが
普段着になってしまっているが、
性の扉は昔に比べて大差がないほど硬いと考えてよいだろう。

また北投温泉で『夜の女』をつとめた女たちも、
日本の赤線地帯で稼いだ女の人たちのような
ネクラで隠微な傷跡は見られない。

案外とあっけらかんとしていて、
しっかり溜め込んだかもしれないが、
経済が発展し、人々のふところが豊かになるにつれて
台湾の人々の生活も日本人とほとんど変わらなくなってしまった。

50歳から上の人は日本語を喋るし、
若い人たちの間でも日本語熱は盛んである。
道をたずねても、親切に日本語で答えてくれる。
そこでつい錯覚を起こして、
台湾の人たちも自分たちと同じ思想の持主であると
早合点しまいがちだが、どっこい、言葉は通じても、
台湾の人たちと日本人は
決して同じ生活論理を持って生きているわけではない。
 

日本の中年男たちが台湾へ行って女をつくり
女の名前でマンションを買ったり、
家を買ったりする男たちはそれを預けていると思っているが、
女たちは取引の代償としてもらったものと思っている。
『恋の決算は難物だ、ととんだ桁違いを真顔で言い張る』と
詩の文句にも出てくるが、いざ別れ話になると、
忽ち話が平行線を辿って改めてカルチャーの違いに気がつき、
カルチャー・ショックにおののく。

その有様を小説という形で書いたのが、
私の『たいわん物語』であるが、
ある時、台湾へ遊びに来た友人に一冊献呈した。
その若い友人は台湾に親しくしているガール・フレンドがいて、
来ている間楽しそうにホテル住まいをやっていたが、
しばらくして再会したら、
『あの本を読んでシラケてしまいましたよ』と文句を言われた。」
(「台湾は昔の台湾ならず」。『金銭通は人間通』に収録)


昭和56年7月、短篇小説『たいわん物語』が
中央公論社から発刊されました。
『週刊ポスト』誌に連載された作品の出版です。
以下は著者による小説の「あとがき」です。
 

「台湾には一年間に約60万人の日本人がやってくる。
観光客もあれば、“男の天国”を目指してくる人もあれば、
海外投資に乗り出して一旗あげたいと思っている人もある。
いずれも、日本経済の発展と円高現象がもたらしたもので、
戦前には考えられなかった新しい説明といってよいだろう。
私は台湾の生まれで、
二十数年間も事情があって故郷へ帰らなかったが、
9年前から台湾と日本の間を定期的に往復するようになり、
この間、実にさまざまの人生模様を見聞する機会に恵まれた。

まさかそれが小説の材料になるとは思っていなかったが、
いざ筆をとって、もうどうにもとまらない。
どこかに掲載するかもきめないで、7篇書きあげてしまい、
それから『週間ポスト』に持ち込んだ。

何しろ週刊誌の連載小説向きに枚数も切っていない、
はたして採用してもらえるかとあやぶんだが、
関根進編集長をはじめ、若いスタッフの皆さんの同意を得て、
逆に紙面の方で調節をしてくれて、
昭和55年11月から56年6月まで全部で10篇を
同誌に連載してもらった。
 

連載中、さまざまな反響があった。
台湾に行ったら、知らない人から
『邱センセイは僕のことをモデルにして小説を書いている』
と云われたし
『なつかしい、自分のことのような気がする』
と手紙を下さった方もあるし、
なかには、『僕は3ヶ月にいっぺんくらい台湾に行きますが、
センセイの小説を見て、女房が色々質問するようになって
弱っていますよ』と頭をかいている人にも出会った。
 

昨今は日本人の行動半径が広がったので、
小説の主人公たちもロンドンやパリやニューヨークに
しばしば姿を現すようになったが、
まだ同じ日本人間の出来事が多く、
世界観や価値観の違った
異国人同士のぶつかりあいまでは行っていない。

たまたま私は日本人と中国人の精神構造の
内部にまで立入ることのできる立場にいるせいか、
双方で火花を散らしたり、
すれ違いになったりするところがよく目に映る。

一つそれをとりあげて
新しいジャンルをきりひらいて見ようと思い立った。
なにしろ短篇小説を書くのは二十数年ぶりで、
小説に関する限りは、貯める一方だったので、
『文学的貯蓄』は巨額にのぼる筈だが、
いざ放出する段階になると、はたしてどういう成果になるのか、

あとは読者の皆さんのご判断にお任せするよりほかない。
題名の『たいわん物語』は
荷風散人が明治の末期に書かれた『アメリカ物語』
『ふらんす物語』にあやかったものである」

(『たいわん物語』あとがき) 

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