2019年11月


『竜福物語』(のち『華僑』に改題)を書いたあと、
香港で引き続いて小説を書き出す。
そのひとつが『敗戦妻』である。

『敗戦妻』は、終戦後の台湾で、
一夜のサービスを提供することで
生計を立てるほかなくなった日本人女性と
彼女の家を訪ねた台湾人男性との人間交流を描く短編小説である。

この作品は昭和31年に発行されることになった『密入国者の手記』と
昭和47年に徳間書店から発行された邱永漢自選集Ⅰ
『密入国者の手記・濁水渓』に収録されている。
 

また『客死』という小説も書いた。
台湾が日本統治下にあった時から日本の統治に抵抗した
台湾の元老に、林献堂という人がいた。

『客死』はこの林氏をモデルとし、
林氏が国民政府の政治に怒りを覚え、
東京に移住したまま帰らなかった模様を伝える作品である。

この小説には、林氏に擬した老人「謝万伝」が登場します。
また「蔡志民」という人物も登場します。

「蔡志民」は、邱に台湾の銀行に勤めていた時、
台湾独立の密使役を頼んだ荘要伝氏がモデルである。
 

荘要伝氏は邱と共に香港に逃避行し、
香港で邱と同じところに居候した。
その後、香港にいてもやることはないといいい
日本に密航し、日本で原因がわらないままに死んでしまう。

この荘要伝さんに擬した「蔡志民」の死体を前に、
老人「謝万伝」が語る。

「蔡君、今度生まれてくるなら、決して植民地に生まれてくるな。
 どんな貧乏で小っぽけな国であってもいいから、
 自分たちの政府をもった国に生まれてくることだ。
 そうすれば君は政治のことなど心配しないでもいい。
 政治家にまかせておいて、放蕩三昧でもして暮らしてくれ。
 そういう姿の君が見たい」と。

この作品も先ほどの2冊の本に収録されているが、
『邱永漢短編小説傑作選・見えない国境線』
(平成6年)にも収録されている。


「密入国者の手記」を乗せてもらったが
「大衆文芸」昭和29年1月号で、その掲載の道を開いてくれたが
台湾での中学、高校時代世話になった西川満氏である。

西川氏は邱が市中の貧弱な原稿を使っているのを知り、
「満寿屋というところの原稿用紙を使ったら
 不思議に賞などもらってプロになれる、
 だからこの原稿を使って
 『オール読物』新人杯に応募してはどうか」
と原稿をたくさん香港に送り届けてくた。
 

台湾に2年、香港に6年、この間に邱は
普通の日本人には想像もできないような異常体験を積んでいる。
書こうとすれば材料にこと欠か無い。

そこで香港、シンガポール、マレーシアを舞台に、
裸一貫から財をなし、再び没落する竜福という名の華僑の話、
「竜福物語」を書き、応募した。
 

この「竜福物語」は約千篇の応募作の中から
最後の5篇の中に残り、邱に自信とプロになる野心を持たた。
 

この作品はのちに直木賞を受賞した作品とともに
『香港』(近代生活社)に収録されるが、
その際、檀一雄氏の勧めで『華僑』と改題された。

この作品は平成6年1月、新潮社から出版された
『邱永漢短編小説傑作選・見えない国境線』
に掲載されている。


台湾から香港に亡命して6年を経過した翌年に書いた作品である。
著者の学友で、のちに明治大学の教授になった王育徳氏(故人)は、
終戦後、台湾から香港経由で密入国し、東大の大学院で中国文学勉強していた。

そこへ奥様と娘さんを観光目的で招き、一緒に生活していたが、
滞留期間の更新が
2回しか認められず、このままだと強制退去を命じられる。
王氏は密入国していたことを自首した。
自首することで、特別許可が許可され、
家族も日本に滞在できると考えたのである。

ところが意に反して、一審も二審も、「強制退去」となった。
ちょうど、香港から東京に出張していた邱が面会し、
王氏からこの窮状を聞いた。
この状態打開に手を差し伸べたいとの思いから
東京の宿で小説を書いた。

そして、作家、長谷川伸先生が主宰する『文芸大衆』に掲載してもらう。
のち、王氏が
この小説を裁判官に提出し、王氏は特別許可を受けることができた。

邱は
1955年(昭和30年)に直木賞を受賞するが、
受賞後の1956年(昭和31年)229日に
この作品が直木賞
現代社から出版された。

ちなみに、王氏は大学で教鞭をとるととともに、
台湾独立運動に 力を注ぎ、
2018年9月9日に
台湾台南市に王育徳紀念館が建てられた。

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