2019年12月


邱は「金儲け未来学」と題する全集の月報を
書き終えたところで台湾に帰ることになりました。
 

「それは私にとって予期していないことだっただけに、
日本にいる日本人と同じような立場でしか
物を見ていなかった私に
全く別の角度から日本経済を見ることを教えてくれた。

それまで私は、賃金の安い発展途上国から
追い立てられる日本人しか想像していなかったが、
資本と技術を提供すれば、
一転して追う側の立場に立てることを発見したのである」
(『金儲け未来学』結語)
 

そこで邱は第一回の台湾旅行から帰ってきた直後、
『経営者会報』に「台湾へ金儲けに行こう」書き、
この文章を読んで以後の台湾投資考察団に
大勢の人たちが参加することになりました。
 

また邱が台湾に行けるようになった時期は、
日本が中華人民共和国と国交を復し、反対に
台湾の中華民国とは国交を断絶する時期でもありました。

そこで邱は『中央公論』本誌昭和47年11月号に
14年ぶりに「新しい日台間に外交関係は要らない」を
書きました。

「これは政治評論のように見えるけれども、
台湾に新しい投資先を見つけようと考えている人たちにとっては、
台湾や台湾人の気持ちを理解する上で役立つだろう」(同上)
というのが執筆者の狙いです。
 

また邱はその2年前の昭和45年に『自由』誌に
「世界の憎まれ役・日本」を書きました。
「日本のかなりの数の企業が、その工場を
東南アジア各地へ移さざるを得ない時期が遠からずくる。
公害をまき散らした企業が
公害の後始末をする責任があるように、
金儲けをした人はその企業で働く人々に幸福とともに、
精神的な平和をもたらす責務がある」(同上)
 

ここに紹介した
「台湾へ金儲けに行こう」
「新しい日台間に外交関係は要らない」
「世界の憎まれ役・日本」
の三作品が国際編の金儲け話として
『金儲け未来学』の後半を構成しています。
 

このように『金儲け未来学』は、日本国内だけでなく、

東南アジアからの接近も織り込まれた書となっています。 


邱が台湾に帰国した1ヵ月後の昭和47年5月に、
「世の中どう変わる」と題する本を
日本経済新聞社から刊行しました。

この本は昭和46年から2年間に、
あちこちの雑誌に執筆、連載した新商売と
投資に関した作品を集めた本です。
 

ちなみに、邱は
「毛生薬」の発売に着手したり、
昭和46年ごろに全国で始めて
ビジネス客専用のホテルを企画、開業し、
これに「ビジネスホテル」と名づけて、
アチコチでこの新商売について講演しています。


こうした新商売を実地で体験したことにもとづき
邱は「いつの時代でもそうだが、
現代はとりわけ物の考え方が事業の成否を決定する時代である」
「政治や思想の問題だけが
物の考え方と関係があると思ったら間違いで、
金儲けや商売もすべて物の考え方を基礎として、
その上に築かれたものである。」
(『世の中どう変わる』あとがき)と書き、
次のことを主張しています。
 

「世の中を暗いものと思い込み、
ますます悪くなくなっていくものだと考えている人は、
暗い面と悪い面しか見ようとしないから
袋小路に迷い込んでいくよりほかないであろう。

反対になんでもうまくいくものだ、
なあに、世渡りなんてチョロイものだと考えている人も、
同じように壁に頭をぶつけてしまうだろう。

なぜならば、世の中にはいろいろと複雑な仕組みがあり、
錯綜した人間の心理の動きがあり、
それが時代とともに動いていくからである。
長い目で見ると、大きな変化が起こるけれども、
その動きは少しずつしか起こってこないから、
それに対する認識が正しければ、身に処していけるわけで、
極端に悲観する必要もないが、
極端に楽観することもないであろう」(同上)、

「また物の考え方がいくら大切だといっても
考えているばかりだったり、
傍観者の立場に終始していたのでは、
何も考えていないのとあまり変わりないであろう。
私は思えばすぐ実行に移す習慣を自分に課してきたので、
次々にそれを仕事の上に反映させてきた。
その際、自分が体験したことを
その愚かさや失敗も含めて書いたのが『商売のヒント』であり、
それがこの本の主たる部分を占めている。
これらの体験は、私にとって
お金儲けの行為そのものであるよりも、むしろ
『お金儲けの発想』の実験のようなものであろう」

(同上)と書いています。


さて、昭和46年に「邱永漢自選集」を出すことになり、
邱は前年の昭和45年の暮に、昔書いた自分の小説を読み返し、
自分の書いた小説に一つの特徴があることに気づきます。
 

「45年の暮れ久しぶりに昔書いた短編小説を何十篇か
恐る恐る読み返してみたが、
意外にも途中で巻をとじるような
ぶざまなことにはならなかった。
中にはこんな駄作をどうして書いたのだろうかと
首をひねりたくなるようなものもないではないが
(それは私の学校時代の恩師が長期の療養生活をやることになり、
その療養費を払ってあげるために恥をさらしたものであるが)
なかにはサマセット・モームとどっちかといった
緊張感に満ちた作品もいくつかあった。
 

どうして臆面もなくそういうことが言えるかと、
十数年もたってみると、昔書いたものなど
もうすっかり忘れ去っており、まるで他人の作品を読むような、
第三者的な立場で自分の作品を読むことができたからである。
 

小説は世間を反映するものだ、と言うけれども、私の小説も
私がそれを書いた時代のことをあれこれ想い出させてくれる。
しかし、いま読み返してみると、その頃は気がつかなかったが
どの作品にも共通していることは、主人公の懐具合が
はっきりそれとわかるように明確に書いてあることである。
 

たとえば『南京裏通り』は横浜の中華街で
バーを経営しているシンガポール生まれの女が、
戦争中に同棲していた日本兵のあとを追って
北海道の旭川に着いたときは、いくら持っていたか、
生活力のない男の納屋に住みついて
炭焼きと養豚をやって金を稼ぎ、
金を持って男のもとを去るときは、いくらもっていたか、
そして、南京街の裏通りのバーにつとめているうちに、
バーの経営者から月賦でバーを買いとったときはいくら払ったか、
ということが全部読者にわかるように書いてあるのには、
われながら驚いた。やはりお金に対する几帳面な態度が、
あの時代にも底流として流れていたようである。」
(『私の金儲け自伝』)
 

そういうことを意識しながら、邱の小説を読むと、
主人公の懐具合がよく分かるように書かれています。
作者のキチンとした性格が的確に反映されエイルことがわかります。


この最後の配本に収録された「惜別亭」は
既に単行本として発刊された小説集です。

一方「オトコをやめる話」は、
過去あちこちの雑誌に書いてきた小説を
この機会に集めて編集したもので
「風流漢奸」「恋の広場」「田沼学校」と
「オトコをやめる話」の4つの小説を収録しています。
 

これらの作品について
のちに邱永漢ベストセラーズの一冊として発刊された
本のまえがきで邱は解説しています。

「『風流漢奸』は国民政府からも共産政府からも
容れられなかった自分自身を戯画化して書いたものだし、
『恋の広場』は先にも後にも一回だけ筆の進まなかった
『誰が家の花』という婦人画報誌の連載をするために、
昔のパレスホテルにカンズメになっていた時に、
すぐお隣にあった皇居前広場に散歩にでかけて
歩いているうちに思いついたストーリーだった。
あの頃の皇居前はまだラブホテルに不自由していた。
若者たちのランデブーの名所だったのである。


『田沼学校』と『オトコをやめる話』は
三字名前の外国人作家が書いた時代小説である。
日本の歴史や国民性に対する私の名前は当然ながら、
生粋の日本人作家と視点からして違っている。
そういう視点から『サムライ日本』や
『キチガイ日本』などの文明批評を既に書いていたが、
田沼意次や本能寺の変を
私が小説に仕立てるとこういう形になった。
 

人知れず苦吟している私の姿を見て
『中央公論』のいまは亡き嶋中鵬二さんが
『邱さん、三字名前で髷物は無理だよ。
何とか錬三郎とか、
なんとか長三郎とかいった名前でないと・・・・』
とアドバイスしてくれた。
それがきっかけで、お金の話に転向して
とうとう今日のようなお金儲けの先生になってしまった」

(邱永漢ベストセラーズ版『オトコをやめる話』) 


昭和46年10月から昭和47年7月にかけて
『邱永漢自選集全10巻』を徳間書店から発刊しました。
 

この全集の第一回の配本は『私の金儲け自伝』です。
この一巻は評論作品として多くの人から注目を浴びた
『日本天国論』と、できたばかりの
『私の金儲け自伝』を収録しています。

 
『私の金儲け自伝』は昭和46年、
週刊現代に連載された自伝です。 


この本の「あとがき」で邱は感想を述べています

「『私の金儲け自伝』は『週刊現代』への連載中、
モニターの投票でずっと
2位、3位を持続し、週刊誌の連載物としては
例外的な人気を博したときいている。

これは私の半生がかなり変化に富んだもので、
それ自体、読物的要素をもっていたせいもあるが、
時代が『金が出てくる人生論』を要求していたからでもあろう。
従来の人生論は、恋愛論ばかりであったが、
平均寿命が延びると皆、実利的になって、
金のことを考えるようになる。

私の自伝は、そうした角度から書かれたものだから、
読者の皆さんの嗜好にうまく投じたのかもしれない」
 

さて、この『私の金儲け自伝』は
邱がのちに台湾に帰るようになり、
台湾での体験を追記した新版を昭和52年に出版しています。

そのまえがきで邱はこの「自伝」について
あらためて論評しています。
 

「小説家が自伝を書くのは、あまり見映えのしないもので、
まして“私の金儲け自伝”などという
おかしなタイトルがつくと、
はずかしいという気持ちが先に立つ。

『恥多き物語書きて、得たるお金いくら』と
佐藤春夫詩集に出てくるが、物書きというのは、
恥をさらして生きているようなところがある。

金儲けのうまい人が世の中にはいくらでもいるのに、
大して金を持っているわけでもない私が
金儲けに焦点をあわせた自伝を書くのは、
どう考えてもカッコがつかないが、
ただ、うまく行った話しよりも
うまくいかなかった話の方が多いから、
読む人に安堵の胸を撫でおろさせる効果は
あるかも知れない。
 

私は『自分の傷口を人に見せないで、
人さまを感動させることはできない』
と信じているので、

功なり名を遂げた人から見たら、
『少し余計なことを書きすぎている』と
映るようなところがあるのではないかと思う。
しかし、それが物書きの宿命だと
私は割り切っている。」

(「『私の金儲け自伝(旧版)』あとがき」)

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