2020年03月

“熟年”というコトバには老人になりつつある人の
やりきれなさのムードが漂っているという
前回の邱の言葉は『ダテに年はとらず』の
「まえがき」なのですが、その後の言葉です。
 

「こうした自信喪失は女性に殊のほか多く見られ、
近頃の50、60のオバンのいじけていること。
年をとることはいずれにしても避けられないが、
どうせ年をとるなら『美しく年をとること』
が何より大切ではないか。
ところが『美しく』というと、中年女はすぐ、
整形手術を連想してしまう。
おかげで、似たような顔付きをした
(シワを無理にひっぱると、人間の顔付きは
どれもこれも似てくるものらしい)お化けが
銀座や赤坂の夜やブラウン管の中に
大量に出没するようになってしまった。

この新しい波は、大洪水になっていまや夜の街から
家庭の壁を乗り越えるほどの勢いを見せている。

私に云わせると、『年をとっても美しく』という指標は、
女性だけに課された『刑罰』的な努力目標ではなくて、
男も女も同じように背負っている『十字架』であり、
主として精神的な努力で実現に近づけるものである。
精神的に豊かであれば、それが表情にも現われ、
生活の端々にも現われてくる。

もちろん、そのためには老後の生活を
おびやかされないだけの経済的な余裕も必要であるが、
折角若い人たちより長く生きてきたのだから、
そういう先輩としての知恵を生かさない手はないと思う。
『ダテに年はとらず』というタイトルは
そういう姿勢から生まれたものである。
私とほぼ同年代の『新人』熟年たちのために
いくらかでも気をとりなおす
バネにでもなればと思っている。」
(『ダテに年はとらず』まえがき)
 

前回から紹介してきた『ダテに年はとらず』は
「ダテに年はとらず」と「21世紀を睨んで」の
2部から構成されていて、前者は、財産対策についての部分など、
数章を除いて、この本のために書き下ろしたもので、
後半の「21世紀を睨んで」は昭和56年3月から
57年5月まで産経新聞に「邱永漢の月曜直言」
と題して掲載されたものです。

“熟年”というコトバが新聞の広告欄などに登場したのは

昭和55、6年くらいのことだったように思います。
その頃のことでしょうか、邱に新聞社から
執筆の依頼がありました。
 

「熟年の生き方についてホンの短い文章を書いてくれと、
ある新聞社から依頼された。
私は『熟年というと何となくきこえはいいが、
要するに死を意識する年齢のことである』
『人間年をとったら、年寄りとしての義務を必要もあるが、
人に好感をもたれる必要もあるから
お祝いなどは少し奮発した方がよい』
という文章を書いた。」
 

そうしたら新聞社の担当者から
『“死”という表現は悪いから
“来し方行く末”になおしたが、よろしいか』と聞いてきて、
短い文章は『寸鉄釘を刺す』でなければならないのに
その要領がわかっていないと邱をして慨嘆させました。
 

以上は、昭和57年にPHP研究所から発刊した
『ダテに年はとらず』の冒頭で紹介されている話です。

この話に続けて邱は“熟年”について書いています。
『「近頃は熟年というコトバが
盛んにジャーナリズムに登場するようになった。
日本の国全体が高齢化社会への道を辿っているのだから、
それは当然のことであるが、
要するに『老年』のことであり、
『老年』というと何となくうら淋しいから、
『熟年』と耳にさわらないように呼びかえたにすぎない。
だから『女中さん』を『お手伝いさん』と呼びかえたのと
同工異曲で、別に中身が変わったわけではない。」
ただ
「いま大量に発生しつつある老人たちは、
老人となる過程で職場からほうり出され、
老残の日々を送るための
生活の糧の心配もしなければならないし、
時間潰しの方法も考えなければならない状態にある。(略)

それらの人々を若者たちはオジンと呼び、
オジンは昔からオジンであったような錯覚をおこしているが、
よく考えてみると、昔から年寄りだった人はおらず、
どの年寄りも、年寄りとしてはまだ新人だから、
オズオズと拒否反応は示しながら、
年をとりつつあるのである。
『選ばれてあることの恍惚と不安、我にあり』
と太宰治は言ったが、老人の“恍惚”は
『恍惚の人』の“恍惚”だから、何ひとつよいことはない。」
(『ダテに年はとらず』はじめに)


邱が各誌に書いたエッセイを仕分けし、
主として経済的発想からスタートしたものを集めて
『固定観念から脱する法』と題して日本経済新聞社から
出版しました。
他方、時をおなじくして、
主として文芸的発想で書かれた
エッセイを『食べて儲けて考えて』と題して、
PHP研究所から出版しました。
 

以後たくさんの作品を出版することになる
PHP研究所からの出版第一号著作ですが、
この本のまえがきで邱は
エッセイの独自性や文学についての自分の考えを披瀝しています。
 

「どういうわけだか、文学のジャンルのなかで日本の文壇は、
特に『小説』を重視する傾向があり、
明治以来ずっと、『小説』即文学と考える風潮が強かった。
文士といえば、小説家のことを指し、
『小説』以外の評論やエッセイを書く人は
すべて雑文家と呼ばれた。
従って、原稿料も、小説の原稿料が一番高く、
雑文書きで生計を立てることは容易ではなかったのである。
 

私はもともとそうした日本文壇の本流とは
無関係の世界から入り込み、
いわゆる日本的な思考に束縛されることがなかったので、
『人の読みたがる文章を書くのが文章家であり』
『お金に関する文章でも、セックスに関する文章でも、
うまいものもあれば、品のないものもあり』
『すぐれた読物はすぐれた文学である』
と信じてきたし、いまでもそう信じている。
 

しかし、世間の扱い方のせいもあって、
日本ではエッセイストとしての天分に恵まれているにも拘わらず、
小説家としてあまり大したことのない作品を書いている人を
しばしば見かける。
そういう人の作品に接するたびに、
自分に似合う舞台で踊ればよいのになあ、
と思ったものであるが、幸か不幸か、
最近は小説という形式の文学が説得力を失い、
衰亡のきざしを見せてきたので、
珠玉のエッセイが光るようになってきた。
その分だけ、小説家がエッセイを手がけるチャンスも
多くなってきたが、小説家のエッセイやノンフィクションで、
ウーンと唸らされるものに出会うのは容易なことではない。
小説より難しいぞ、と改めて思い知らされるのである。
 

エッセイは短い文書のなかで、
それなりに頭も尻も尾も必要である。
物を見る確かな目も、人を感心させたり、
おどろかせたりする着想も必要である。
生活者としての知恵を持ちあわせているかどうかも、
読む人にすぐ見透かされてしまう。

そういう意味では、『遊び』と
『知的ゲーム』の要求される時代にふさわしい読物は
何といってもエッセイであろう。
もちろん、これは自分の書いたものの出来不出来は棚にあげて、
一般論をやっているだけのことであるが・・・」
(『食べて儲けて考えて』あとがき)
 

私はここに収めれている作品を何度も再読し、
邱は現代の東洋に生まれたトップレベルの思想家の一人
といってさしつかえないと思うようになりました。 

『固定観念を脱する法』が出版されたのは昭和57年のことでしたが
その16年後の平成10年に3回目の全集、ベスト・シリーズの
49として再版されました。

再版にあたっての邱の「まえがき」を読むとその間における
世界の経済の動きや邱さんの着眼の変化がよくわかります。

「『固定観念を脱する法』は1982年の春、日本経済新聞社から
私の全集Qブックス全25巻を刊行するにあたって、
本来、単行本として出版すべきものを、
その第1巻として世に出したものであった。
 

学問をやる人でも、事業をやる人でも、また株式投資をやる人でも、
最大の敵は商売ガタキではなくて、過去の経験によって
自分の頭の中にしっかり根をおろしてしまった固定観念である。
そういう固定観念にとらわれないようにするためには
どうすればよいかということは私が人に教えることであるよりも、
私自身が勉強しなければならないことである。

従ってこの本を書いたあとも、
如何にして固定観念にとらわれないで生きるかが
人生を生きる上での私の最大のテーマであり続けた。

いまこの本を読みなおして見ると、
固定観念にとらわれまいという態度では
少しの変わりもないけれども、
15、6年前に考えていたことはズバリ当たったこともあれば、
全くピントはずれに終ってしまったこともある。
 

たとえば、国際収支が大幅黒字になりはじめた日本は
最大の輸出先であるアメリカに投資を集中するだろうと
私は予想し、事実、そういう一時もあったが、
対米投資は自動車とか半導体のような生産投資を除くと
不動産や債権の分野でも予想を上廻るドル安に見舞われて
大へんな被害を被り、少なくとも第一回目は、
完全な失敗に終ってしまった。
 

私はすぐ方向転換して、アジアの時代の到来を予想し、
アジアに目を向けるようにすすめたが、そこに至るまでに
タイから始まったアジアの通貨不安という嶮しい谷を
乗り越えなければならないピンチのさなかにおかれている。
変化は次から次へとおこってくるので、過去の考えに
固執していたのでは一歩も先に進めなくなっている。

その点、固定観念を持っていなければ、臨機応変に対処
することができる。だから将来のことを考えるときは
間違っても『昔はこうだった』と言わないことだ」
(ベスト・シリーズ版『固定観念を脱する法』まえがき)

「なぜ固定観念にとらわれてはいけないのか」
と題する一文の最後の部分です。
「その意味では、外国人が日本のことをどう考えているのか、
物差しを向こう側にあてて測定する必要があるが、
そうした人気にかかわらず、株式という形式の財源は、
長期化するスタッグフレーションの下で
次第に人気離散していく存在であるという見方を
変える気にならないのである。

株よりは、土地の方が、また日本の土地よりは
アメリカの西海岸のようなこれから日本企業が
大挙して進出するであろう地域の土地の方が、
投資の対象としては有望だろうというのが
私の見方なのである。
 

既存の発想によって運営されてきた経済が行き詰まって、
不況が世界的な拡がりを見せると、
経済的なリーダーシップが一国から他国へ移動し始める。
1930年代に、世界恐慌におちいったあと、
ケインズの理論を応用したニューディール政策が成功すると、
世界のリーダーシップはイギリスからアメリカに移った。

あれから半世紀たった昨今、
そのまま製品に上乗せして売ろうと思っても、
石油の値上がりがきっかけになって、
アメリカ的発想による生産体制が壁にぶつかり、
全世界が再び不況に見舞われた。
石油の値上がりによるコスト・インフレを
購買力がそれに伴わないから、滞貨の山になってしまう。

そういう中にあって、日本人は『省エネ』と『無人化』
という二つの新兵器をひっさげて
経済戦争の土俵におどり出てきた。

今や、どこの国に行っても、
日本製品に打ちまかされつつある連中が
『日本側が急増する輸出を抑えなければ、
貿易制限で報復するぞ』とおどしをかけてきている。
この駆け引きを見ている限りでは、
日本は50年前のアメリカの役割を
肩代わりしつつあるかに見える。
おそらく10年を出でずして、
世界経済における次のプライス・リーダーは
日本に移ると見てよいのではあるまいか」
(『固定観念を脱する法』まえがき)
 

『固定観念を脱する法』は日本が昭和55年頃から
世界に対して力強さを示すようになってきた
ことを伝える経済評論も収録しています。

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