大東亜戦争中、外地の台湾から内地、東京に留学していた林学生は、
仙台医専学んでいた魯迅が国民の精神が改善されなければ、
国民の暮らしはよくならいないと考え、
卒然と中退したとの実話に刺激され、
中国大陸への渡航を企てる。

この計画を実行しようとしていた矢先、特高に寝込みを襲われ、計画は頓挫する。
そして、「台湾人・朝鮮人学徒の志願兵制度」が発令される。
「志願」とは名ばかりで、実質、うむを言わせない「強制」である。

それに従うかどうか、考えた結果、逃げ回ることを選び、
伝手を頼って、東京から、神戸、姫路、長崎、東京と逃げ回る。
逃亡、数ヶ月のうち、日本は敗戦を迎える。
 

戦争が終わり、林青年新生、台湾の再生に期待を寄せ故国に帰る。

この台湾に、中国大陸での戦争で敗れた国民政府一派が逃げ込んできて、
悪政の限りを尽くす。
この圧政に怒った台湾住人が怒りを爆発させるが(2
.28事件)、
国民政府は近代装備を見についた兵士達を台湾に送り、
台湾住民を殺戮し、台湾のインテリの大半が皆殺しにあう。

台湾人の故郷を失った悲しみから、
林は船に乗って、香港に逃避する道を選ぶ。
 

以上のように、この作品は二部構成で、
一部が
戦争中、東大に留学していた台湾人の学生が志願兵になることを拒み、
日本国中逃げ回る話であり、
二部はは戦後、夢を抱いて台湾へ帰ってきた青年が
2・28事件という
反政府運動に巻き込まれ、失意のうちに台湾を脱け出す」
という構成である。

1954年(昭和29年)4月、
香港から生まれたばかりの長女を連れ、
来日した邱が最初に執筆した作品である。

この「濁水渓」も前作の「密入国者の手記」同様、
「大衆文芸」誌に掲載してもらが、この作品を載せた雑誌を
送ったのは大学の先輩にあたる
檀一雄氏である。

小説を読んだ檀一雄氏から「作品を読んだ。作品は合格である。

出版の手続きをする」との連絡を受け、
1954年(昭和29年)125日に「現代社」から刊行される。

この作品は第32回直木賞の候補作に選ばれるが、
決戦で選に漏れる。

この作品はのち、

邱永漢自選集〈第1巻〉『密入国者の手記・濁水渓 』(1972年) 

邱永漢ベストセラーズ 『香港・濁水渓』(1992/5)

文庫版 『香港・濁水渓』(1980/1/1)
が刊行され今に至っている。




(参考)邱永漢著『邱飯店のメニュー』。同著『わが青春の台湾。わが青春の香港』。