「耳をとらなかった話」は
昭和31年から昭和33年まで
2年の間のあいだに邱が書いた作品評論
が集めたエッセイ集です。
 

この本の中に「まわせまわせ糸車」と題するエッセイが
収録されています。
昭和32、3年頃の邱の消息をよく伝えているように
思えますので引用します。
 

「今年(昭和32年)の五月、かねてから『あまカラ』誌に
連載してきた食べ物随筆『食は広州に在り』を一冊にまとめて
出版するまでは至極のんびりした日常だった。
ところがこの本が出ると、ラジオの対談などに引っぱり出され、
食通だそうですが、ときかれるので、いいえ大食通です答えると、
たいてい、相手が笑い出してしまう。

それに力を得て、その後、中央公論の巻頭論文を続けて書いて、
このところ、小説を書かなくなりましたね、といわれると、
はい大説家になりましたから、と答えることにした。

冬も近づくとさらに病が高じて、
遂に男女関係の大家にまで化けてしまった。

いずれも大がつく点では『大日本』と同様、はなはだ大時代である。
小人ほど大言壮語し、ボロ会社ほど大きな看板をかける
傾向があるから、その典型的な例だといわれては返す言葉もない。
夏のことだが、一ヶ月に二十以上も仕事が持ち込まれて
悲鳴をあげたら、
ある人が、心配しないでも二ヶ月ぐらいですぎるよ、
といってくれた。
うれしいような、さびしいような気持できいていたが、
いつの間にか半年たってしまった。

これが従業員を抱えた会社ならたちまち近江絹糸の二の舞だが、
昔ながらの手内職だから『まわせまわせ糸車』で、
結構まだぐるぐるまわっている。

いまに種切れになって糸車がまわらなくなって、
糸車がまわらないだろうかと心配顔をしたら、
なあに、相手(社会現象)の方が変わってくれから大丈夫さ、と
これは大宅壮一先生のご名答。
それにしても、一年を十日で暮らすいい男、とまでは望まないが、
せめて、あとの半年はねて暮したいものですね。」
 

邱がかなり忙しくなった様子が読み取れますね。
近江絹糸とは昭和29年の6月から9月まで労働争議が続いた
会社のことです。